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宇部護国神社について

 宇部護国神社(維新招魂社)に祀られている神様は、慶応二年から明治維新にかけて、国の為に命を捧げられた方々の御霊が祀られています。昔の領主福原越後元僴(もとたけ)翁をはじめその家臣、また日清・日露戦争その他の戦役事変で戦死された英霊です。
 昭和年代になってからは、周辺地域の合併により同地域の英霊が合祀され、現代では大東亜戦争の英霊3430柱、更に消防団などの殉職者も合祀されております。
 宇部護国神社は、初めに福原越後元僴(もとたけ)翁を祀り維新招魂社と称されたのが始まりで後、昭和14年に内務省令により宇部護国神社と改称され昭和21年に維新山神社と改称され講和条約発行と共に昭和28年に再び宇部護国神社の社名に戻り現在に至ります。昭和19年には起源2600年記念事業として、全市崇敬者の協賛の下に神域を拡張し荘厳な社殿が設営されましたが、翌20年7月1日の空襲に敢えなく焼失いたしました。幸い御神霊は旧社殿に奉還することができ、社務所だけはかろうじて難を免れました。
 昭和23年頃から社殿再建の話が、有志の間から澎湃として起ってまいりました。昭和28年8月28日には、宇部護国神社御造営奉賛会が設立され、会長に俵田明、副会長に上田十一、真宅正一その他役員の方々が選ばれて、いよいよ再建に向かっての動きが活発になってまいりました。
 全市民より600万円の浄財が寄せられ、工事は小倉の宮大工・中村時次郎に依頼して昭和30年1月8日起工式、同9月26日深夜遷祭、同9月27日には三隅市長以下関係者多数集まって盛大に竣工祭並びに竣工式が催されました。

福原越後元僴翁について

 福原越後元僴翁は、幕末「禁門の変」に於いて、益田右衛門介・国司信濃と共に藩主毛利敬親の命令で京都における長州藩の政治勢力回復のため、京都に向け兵を進められ鳥羽・伏見街道で幕府軍と戦われました。
 その時、長州藩は戦運無く敗れて、越後翁も帰郷されましたが、藩の幕府恭順派の大勢により益田右衛門介・国司信濃と共に内政撹乱の責任を取らされ、一方的に幕府反逆の罪を負わされて自刃を命じられました。
 そして越後翁は罪状に不服を抱きつつも領政の安定を心願しつつ岩国の竜護寺で悔しくも自刃されたのであります。時、元治元年(1864)11月12日午前7時当年50歳。
 この福原越後翁の無念の切腹により、幕府征長軍の戦闘が回避され長州藩は救われたのでありますが、その後、再び尊皇擾攘夷派の台頭により幕府恭順派が藩における勢力を失い、藩の主導権が維新派の手に帰したのであります。
 そして、すぐに福原家の復権も行なわれ、慶応2年(1866)8月10日、福原越後翁の罪状焼棄(罪でなくなる)の命が下り、維新の功績者の一人として、維新山を拓いて招魂社を建て、越後翁の御霊と家臣22柱の御霊を丁重にお祀りし、12月4日に初めて祭典が行なわれたのであります。
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