今年、戦後七十五年を迎え戦後生まれの人達が人口の八割を超え戦争の記憶が戦争の歴史へと変わり、今日の日本の平和が、日本を守る為に他国と戦った先人達の苦労や犠牲の上に築かれたものであることが忘れられようとしています。
宇部護国神社は、一般的なご利益信仰神社と異なり、国のために亡くなられた郷土の御霊を神としてお祀りし、宮司を始め総代一同、春・秋の大祭を主催し感謝の誠を捧げ、慰霊(霊魂を慰め)顕彰(功績や功労など讃えて明らかにする)に努めております。また当社の主祭神(中心となる神様)は、幕末長州藩永代家老にして宇部領主福原家第二十四代当主・福原越後公であり、維新の礎となられたお方で、長州藩存続のため自刃されたのです。この越後公の御霊をお祀りするために建立された「維新招魂社」が、明治の近代化政策の一つであった国家神道の下で成長し。昭和14年に「宇部護国神社」に改称され、戦後は神社本庁包括下の一宗教法人として現在に至っております。
神道には「中今(なかいま)」という考えが有ります。過去・現在(今)・未来の時間(歴史)の流れの中、我々は現在(今)を生きています。現在である「今をより良く懸命に生きましょう」という考えが、「中今」という考えです。しかし現在とは過去の産物で有り、我々の祖先が培ってきたものの上に我々は生きています。未来の人達(子孫)は、我々の培ったものの上で生きていく訳です。我々の祖先や先人達は素晴らしい日本という国を護り残して下さいました。我々もこの素晴らしい日本を護り、より良い国にして未来の人達(子孫)に残さなければなりません。それが、中今を生きる我々の今成すべきことの大切な一つであります。
明治維新から日本の近代化を図られた19世紀から20世紀初頭にかけて欧米列強の帝国主義によりアジア・アフリカが植民地化の波に飲み込まれる中、祖国日本を護るために尊い命を捧げられた人達や戦後復興に力を注がれた人達のお陰で平和な今があります。国を守るために尊い命を捧げられ、神となられたご英霊(国を護るために亡くなられた人達の御霊)は愛する父母や妻子、また婚約者や兄弟等を残して出征され、愛する人達が住む日本が平和になることを信じて散華(死ぬこと。特に、若くして戦死すること)されたのです。そのことを思えば、今日の平和を享受(受け入れて、味わい楽しむ)している我々が成すべきことは、ご英霊に対し感謝の誠を捧げ慰霊顕彰することであり、それがご英霊に対する唯一の恩返しではないでしょうか。目に見えないご英霊に対する思い遣りや感謝の心をご英霊の住家である護国神社と共に次代に残し、戦争を知らない人達に、護国神社を通して平和の尊さ、国に対する愛(いと)しさや大切にする心を涵養し、次代を担う人達が次の時代、またその次の時代へと護り残してくれたら、日本の平和は永遠のものになると思います。
予てより、宇部護国神社ではご遺族・崇敬者の方から高齢者や障害者の為のスロープや駐車場拡張整備等ご要望頂いており、令和の御代を迎えた今日「令和御大典記念神域整備事業」として行うにあたり、市民の皆様を始め趣旨にご賛同頂けます皆様に宇部護国神社という神社の存在意義や事業の趣旨をご理解頂きご奉賛賜りたく、ここに少々宮司の思いを認(したた)めお願い申し上げる次第であります。
現在、宇部護国神社の運営に於きましては、日本国憲法の政教分離の原則により国や市等の公的な補助・援助は一切ございません。ご遺族や神社にご理解頂いております崇敬者方々のご浄財(ご寄付や御祈願料等)により運営しております。昔に比べ、宇部市の人口も少なくなりご遺族様も少なくなっており、総代様のご協力にも限界があり、大変厳しい状況にあります。どうか市民の皆様を始め趣旨にご賛同頂けます皆様のご理解ご協力を頂き、宇部護国神社を子々孫々に残したいと思います。皆様の御奉賛をお願い申し上げます。尚、令和の御代を迎えて始めた記念事業もコロナ禍により事業延期を余儀なくされております。よって茲に事業延期をご報告申し上げますと共に、改めて市民の皆様を始め趣旨にご賛同頂けます皆様にご奉賛のお願いを申し上げます。
令和二年八月吉日
宇部護国神社は、一般的なご利益信仰神社と異なり、国のために亡くなられた郷土の御霊を神としてお祀りし、宮司を始め総代一同、春・秋の大祭を主催し感謝の誠を捧げ、慰霊(霊魂を慰め)顕彰(功績や功労など讃えて明らかにする)に努めております。また当社の主祭神(中心となる神様)は、幕末長州藩永代家老にして宇部領主福原家第二十四代当主・福原越後公であり、維新の礎となられたお方で、長州藩存続のため自刃されたのです。この越後公の御霊をお祀りするために建立された「維新招魂社」が、明治の近代化政策の一つであった国家神道の下で成長し。昭和14年に「宇部護国神社」に改称され、戦後は神社本庁包括下の一宗教法人として現在に至っております。
神道には「中今(なかいま)」という考えが有ります。過去・現在(今)・未来の時間(歴史)の流れの中、我々は現在(今)を生きています。現在である「今をより良く懸命に生きましょう」という考えが、「中今」という考えです。しかし現在とは過去の産物で有り、我々の祖先が培ってきたものの上に我々は生きています。未来の人達(子孫)は、我々の培ったものの上で生きていく訳です。我々の祖先や先人達は素晴らしい日本という国を護り残して下さいました。我々もこの素晴らしい日本を護り、より良い国にして未来の人達(子孫)に残さなければなりません。それが、中今を生きる我々の今成すべきことの大切な一つであります。
明治維新から日本の近代化を図られた19世紀から20世紀初頭にかけて欧米列強の帝国主義によりアジア・アフリカが植民地化の波に飲み込まれる中、祖国日本を護るために尊い命を捧げられた人達や戦後復興に力を注がれた人達のお陰で平和な今があります。国を守るために尊い命を捧げられ、神となられたご英霊(国を護るために亡くなられた人達の御霊)は愛する父母や妻子、また婚約者や兄弟等を残して出征され、愛する人達が住む日本が平和になることを信じて散華(死ぬこと。特に、若くして戦死すること)されたのです。そのことを思えば、今日の平和を享受(受け入れて、味わい楽しむ)している我々が成すべきことは、ご英霊に対し感謝の誠を捧げ慰霊顕彰することであり、それがご英霊に対する唯一の恩返しではないでしょうか。目に見えないご英霊に対する思い遣りや感謝の心をご英霊の住家である護国神社と共に次代に残し、戦争を知らない人達に、護国神社を通して平和の尊さ、国に対する愛(いと)しさや大切にする心を涵養し、次代を担う人達が次の時代、またその次の時代へと護り残してくれたら、日本の平和は永遠のものになると思います。
予てより、宇部護国神社ではご遺族・崇敬者の方から高齢者や障害者の為のスロープや駐車場拡張整備等ご要望頂いており、令和の御代を迎えた今日「令和御大典記念神域整備事業」として行うにあたり、市民の皆様を始め趣旨にご賛同頂けます皆様に宇部護国神社という神社の存在意義や事業の趣旨をご理解頂きご奉賛賜りたく、ここに少々宮司の思いを認(したた)めお願い申し上げる次第であります。
現在、宇部護国神社の運営に於きましては、日本国憲法の政教分離の原則により国や市等の公的な補助・援助は一切ございません。ご遺族や神社にご理解頂いております崇敬者方々のご浄財(ご寄付や御祈願料等)により運営しております。昔に比べ、宇部市の人口も少なくなりご遺族様も少なくなっており、総代様のご協力にも限界があり、大変厳しい状況にあります。どうか市民の皆様を始め趣旨にご賛同頂けます皆様のご理解ご協力を頂き、宇部護国神社を子々孫々に残したいと思います。皆様の御奉賛をお願い申し上げます。尚、令和の御代を迎えて始めた記念事業もコロナ禍により事業延期を余儀なくされております。よって茲に事業延期をご報告申し上げますと共に、改めて市民の皆様を始め趣旨にご賛同頂けます皆様にご奉賛のお願いを申し上げます。
令和二年八月吉日
宇部護国神社宮司 野 村 好 史
宇部市の誇り元宇部領主・福原越後元僴(ふくばらえちごもとたけ)公
1. 維新回天(明治維新)最大の契機。福原越後公を含む長州三家老の切腹。
幕府方と長州藩との戦い禁門の変。禁門の変の敗戦により幕府から第一次長州征伐(征討)令が下され、幕府は、広島城に3万の兵を集結し長州討伐に備えた。この第一次長州征伐回避、藩存続のために、藩内の幕府恭順派の俗論党に禁門の変の責任を負わされ、藩主の命令で出兵したにも拘らず藩主に対する不忠不義の汚名を着せられ越後公を含む長州三家老が切腹し、第一次長州征伐が回避され藩存続となった。一か月後、三家老切腹の報を受けた高杉晋作が激怒、すぐさま帰藩し功山寺で挙兵。俗論党打倒から倒幕へと歴史が動き明治維新となったのである。三家老の切腹を以て第一次長州征伐が回避されていなければ、長州藩取り潰しとなり高杉晋作の出番もなく明治維新も無かったであろう。
2. 靖国神社の源流と言われる越後公の招魂祭
元治元年(1864)11月12日幕府恭順派俗論党に禁門の変の責任を負わされ岩国の龍護寺で切腹された越後公の首級は他の家老の首級と共に幕府方の長州藩征討総督に届けられ、第一次長州征伐は延期されそのまま行われることはなかった。翌年慶応元年(1865)4月12日幕府が第二次長州征伐を発令した中、佐甲但馬が国家の為に忠死した者を神として祀ることを藩政府に上申し、5月14日に藩より許可が下り、5月16日萩椿八幡宮青山清宮司により、琴﨑神社(琴崎八幡宮)で越後公の招魂祭が営まれ仮合祀された。この越後公の招魂祭が国事に斃れた人を神として祀った最初で、後、招魂祭が次々斎行されその延長線上に東京招魂社(靖国神社)があるのである。故に越後公を招魂祭で神社に祀ったことが靖国神社の源流であると郷土史家堀雅昭氏が自著「靖国の源流」に記しておられる。
3. 福原越後公の精神が「明治維新」の「維新」という言葉のルーツである
「維新」は『詩経』「大雅・文王篇」の一節である「周雖旧邦 其命維新(周は旧邦なりといえども、その命これ新たなり)」に由来すると言われている。
安永8年(1779年)肥前国平戸藩の第9代藩主松浦 清が藩政改革、人材の育成に務め、藩校・維新館を建設している。また天保元年(1830年)、水戸藩の藤田東湖が藩政改革への決意を述べる際に、「周雖旧邦 其命維新」を引用して「維新」を用いたとされている。どちらも「明治維新」の「維新」と出典は同じであるが、黒船来航が嘉永6年(1853年)であり、これが激動の時代の幕開け「明治維新」の始まりとすれば、松浦 清、藤田東湖にしてもそれ以前のことであり、「明治維新」の「維新」の言葉のルーツというには少し隔たりがあると思われる。そんな中、維新の当事者の一人である、長州藩永代家老、宇部領主・福原越後公は、王政復古を期し、また国学と洋学を推し進めるため維新館を設立した。「維新」というのが旧弊を一洗して革新することと捉えれば、尊王倒幕、国学と洋学推進こそが、越後公にとっての「維新」であり、その精神が、我が宇部の地で実践された。これが明治への大変革「明治維新」の「維新」という言葉のルーツと言えるであろう。また維新回転半ばで無念の死を遂げた越後公の家臣が、その思いを汲んで、埋葬地を音が同じ意信(イシン)山を選び、慶応2年(1866年)11月19日招魂社を建立し「維新招魂社」と命名したことも、越後公の用いた「維新」への思いが、後の維新の精神として受け継がれ「明治維新」と呼ばれるようになったと言えるのである。(郷土史家堀雅昭講演録より抜粋)
安永8年(1779年)肥前国平戸藩の第9代藩主松浦 清が藩政改革、人材の育成に務め、藩校・維新館を建設している。また天保元年(1830年)、水戸藩の藤田東湖が藩政改革への決意を述べる際に、「周雖旧邦 其命維新」を引用して「維新」を用いたとされている。どちらも「明治維新」の「維新」と出典は同じであるが、黒船来航が嘉永6年(1853年)であり、これが激動の時代の幕開け「明治維新」の始まりとすれば、松浦 清、藤田東湖にしてもそれ以前のことであり、「明治維新」の「維新」の言葉のルーツというには少し隔たりがあると思われる。そんな中、維新の当事者の一人である、長州藩永代家老、宇部領主・福原越後公は、王政復古を期し、また国学と洋学を推し進めるため維新館を設立した。「維新」というのが旧弊を一洗して革新することと捉えれば、尊王倒幕、国学と洋学推進こそが、越後公にとっての「維新」であり、その精神が、我が宇部の地で実践された。これが明治への大変革「明治維新」の「維新」という言葉のルーツと言えるであろう。また維新回転半ばで無念の死を遂げた越後公の家臣が、その思いを汲んで、埋葬地を音が同じ意信(イシン)山を選び、慶応2年(1866年)11月19日招魂社を建立し「維新招魂社」と命名したことも、越後公の用いた「維新」への思いが、後の維新の精神として受け継がれ「明治維新」と呼ばれるようになったと言えるのである。(郷土史家堀雅昭講演録より抜粋)
4. 福原越後公の教えから生まれた宇部モンロー主義と宇部市の発展
江戸時代一漁村に過ぎなかった宇部地域は関ケ原の合戦終結に伴い、毛利家門下にあった福原家の領地となった。福原越後公は禁門の変の後、幕命による第一次長州征伐回避、藩存続のためとは言え、藩主の命に従ったにも拘らず「不忠不義」と言う罪名により切腹させられる理不尽さに納得できず「これからは自分たちのことは自分たちでせよ」との遺言を残し切腹した。また家門断絶となった福原家の統治下にあった宇部地域は藩内で冷遇され、その結果、家臣たちは宇部のことは宇部でやろうと考え結束を強めて、明治の廃藩置県を経て独自の道を進むようになり、福原越後公の継嗣福原芳山公を始め家臣たちは苦労を重ねながら、更に「共存同栄」と言う理念を掲げ地域一体となり地域独自の近代化を目指したのである。此の地域主義を「宇部モンロー主義」と呼ぶようになった。
宇部市は福原越後公の継嗣福原芳山公が小野田の福井忠次郎が独占していた炭鉱権益を私財を投じて取り戻したことから、炭鉱業が発展して行った。殊に、福原越後公の家臣、俵田家、更には渡邊祐策翁が「いずれは堀り尽くす有限の石炭を、無限の工業の価値に展開し、地域に永く繁栄をもたらそう」と言う理念を掲げ、事業に取り組み、その結果、沖ノ山炭鉱が成功し、俵田明を初代社長とする宇部興産(株)の設立により宇部地域は工業都市へと発展し、宇部市も成長したのである。
宇部市は福原越後公の継嗣福原芳山公が小野田の福井忠次郎が独占していた炭鉱権益を私財を投じて取り戻したことから、炭鉱業が発展して行った。殊に、福原越後公の家臣、俵田家、更には渡邊祐策翁が「いずれは堀り尽くす有限の石炭を、無限の工業の価値に展開し、地域に永く繁栄をもたらそう」と言う理念を掲げ、事業に取り組み、その結果、沖ノ山炭鉱が成功し、俵田明を初代社長とする宇部興産(株)の設立により宇部地域は工業都市へと発展し、宇部市も成長したのである。
【趣意書】 宇部護国神社御大典記念神域整備事業(趣意書は、事業開始時点(令和元年六月)のもので、事業継続中にてそのまま掲載させて頂いております。)
宇部護国神社に於きましては、本年令和と云う時代を迎え、新しき御世を寿ぎ御大典記念神域整備事業を開始し、現在継続しております。ここに皆様方のお力添えを賜りたくお願いを申し上げる次第であります。
宇部護国神社は、旧称「維新招魂社」と言われ、明治維新から近代に於ける激動のなか、明治維新のために尊い命を捧げられた、元宇部領主、第24代福原家当主、福原越後元們公とその家臣、そして日清日露から大東亜戦争で国の為に散華されたご英雲、また市内の大火災に於いて殉職された消防士の御霊を神としてお犯りしております。
我が国の今日の平和は、ひとえにご祭神のご加護によるものであり、宮司・ 総代一丸となって神社をお護りし、春秋の大祭を盛大に斎行しご祭神の慰霊・顕彰に努め、ご祭神の事跡を後世に伝えるため尽力致しております。
戦後74年を迎えた今日、ご高齢となられたご遺族や障害者の方々が車椅子でお参りしたいけれどもできないという状況にあり、今後、誰もがお参りすることができ、心から「有り難う御座います」と手を合わせ感謝と慰霊の誠を捧げることが出来るよう下記事業を計画致しました。
創建当初より宇部護国神社は、 心ある人々のご浄材により護持されております。出費多端な時世とは存じますが、趣意をお汲み取り戴きまして、ご浄財のご奉賛を賜りますようお願い申し上げます。
宇部護国神社は、旧称「維新招魂社」と言われ、明治維新から近代に於ける激動のなか、明治維新のために尊い命を捧げられた、元宇部領主、第24代福原家当主、福原越後元們公とその家臣、そして日清日露から大東亜戦争で国の為に散華されたご英雲、また市内の大火災に於いて殉職された消防士の御霊を神としてお犯りしております。
我が国の今日の平和は、ひとえにご祭神のご加護によるものであり、宮司・ 総代一丸となって神社をお護りし、春秋の大祭を盛大に斎行しご祭神の慰霊・顕彰に努め、ご祭神の事跡を後世に伝えるため尽力致しております。
戦後74年を迎えた今日、ご高齢となられたご遺族や障害者の方々が車椅子でお参りしたいけれどもできないという状況にあり、今後、誰もがお参りすることができ、心から「有り難う御座います」と手を合わせ感謝と慰霊の誠を捧げることが出来るよう下記事業を計画致しました。
創建当初より宇部護国神社は、 心ある人々のご浄材により護持されております。出費多端な時世とは存じますが、趣意をお汲み取り戴きまして、ご浄財のご奉賛を賜りますようお願い申し上げます。
宇部護国神社 | 宮司 | 野村 好史 | |||
総代会長 | 秋本 宜正 | ||||
責任役員 | 一同 | ||||
常任総代 | 一同 | ||||
英霊にこたえる会宇部支部 | 支部長 | 二木 和夫 | |||
宇部市連合遺族会 | 会長 | 岩村 誠 | |||
宇部市商工会議所 | 会頭 | 杉下 秀幸 | |||
御賛同者 | 衆議院議員 | 河村 建夫 | 岸 信夫 | 高村 正大 | |
参議院議員 | 林 芳正 | 江島 潔 | 北村 経夫 | ||
山口県議会議員 | 二木 健治 | 篠﨑 圭二 | |||
前山口県議会議員 | 岡村 精二 | ||||
宇部市議会議員 | 射場 博義 | 笠井 泰孝 | 兼広 三朗 | 志賀 光法 | |
重枝 尚治 | 猶 克実 | 唐津 正一 | 岩村 誠 | ||
河崎 運 | 山下 節子 | 黒川 康弘 | 城美 暁 | ||
田中 文代 | 早野 敦 | 氏原 秀城 | 芥川 貴久爾 | ||
高井 智子 | 山下 則芳 | 青谷 和彦 | |||
前宇部市議会議員 | 杉山 孝治 | 高井 仁 |
記
一、事業期間 令和元年六月から令和三年三月
二、御大典記念神域整備事業総額 3000万円
内訳 ○ 車椅子参拝可能な道路設置工事 1300万円
○ 駐車場取得拡張工事・その他 1700万円
三、御奉賛金 一口 5千円より(何口でも可)
四、奉賛者待遇 3万円以上 奉賛記念板に記載(他は常設「御奉賛者芳名帳」に記載)
100万円以上 玉垣
五、申し込み方法
(1)金融機関の用紙又はATMにて振り込んでください。
(2)振込手数料は各自のご負担をお願いしております。
(3)現金書留の場合は
〒755-0086 宇部市大字中宇部1631番地
宇部護国神社 野村 好史
電話番号 0836-21-4543 FAX 0836-21-4548宛にお送りください。
(4)神社持参の場合、宇部護国神社社務所にて申し受けます。
奉賛金受付機関
金融機関名 | 口座 | 口座番号 | 口座名 |
山口銀行 上宇部支店 | 普通 | 5083045 | 宇部護国神社 実行委員会 代表者 野村好史 |
西京銀行 宇部支店 | 普通 | 2128937 | 宇部護国神社 実行委員会 代表者 野村好史 |
西中国信用金庫 琴芝支店 | 普通 | 0232753 | 宇部護国神社御大典記念事業 実行委員会 代表 野村好史 |
ゆうちょ銀行 五五八支店 | 普通 | 3093693 | 宇部護国神社 実行委員会 代表者 野村好史 |
ゆうちょ銀行→ゆうちょ銀行 | 15560-30936931 | 宇部護国神社 実行委員会 代表者 野村好史 | |
ゆうちょ銀行(郵便局)払込取扱票で振込み |
※お振込み手数料は、大変申し訳ございませんがご負担願います。
※奉賛金を頂きました方は、「御奉賛者芳名帳」に記載し、御神前に御奉納申し上げ御祈願申し上げます。
※詳しくは、宇部護国神社社務所までお問い合わせ下さい。
※銀行振り込みの方は、ご芳名のみの記帳(カタカナ表記)によりご奉賛者が特定出来ませんので、大変お手数をお掛け致しますが、社務所に振り込みの旨、電話・FAX等でご連絡下さいませ。